十六年

横浜赤レンガ倉庫Nibrollのダンスを見に行った。2002年初演の「コーヒー」を見たのは今回が初めて。矢内原美邦さんの演劇(ミクニヤナイハラプロジェクト)は好きでこれまでに何度か見に行ったことがあるけれど、どれも演劇でありつつ人間の身体性を強く主張するダンス性の高いものだった。ミクニヤナイハラプロジェクトをダンス寄りの演劇と呼ぶならば、Nibrollのほうは演劇よりのダンスと言えると思う。初演が2002年と聞くと最近のように思えるが16年前と聞くともう途方もない昔のようだ。あのころ911があり、その直前まで世界貿易センタービルがあった。今は皆あの場所をグラウンド・ゼロと呼んでいる。ツインタワーがあったはずの場所に二つの正方形の大きな穴が空いて内側に向けて滝のように水が流れこんでいる。その周りの礎に犠牲となった人々のたくさんの名前が彫り込まれている。ある人は花をたむけ、またある人は自身の宗教にしたがった祈りをささげる。たくさんの人の祈りが二つの大きな暗い穴に吸い込まれてゆく。いま、あの場所には新しいワールドトレードセンターが建造されている。16年のあいだにどれほどの人が祈りをささげどれほどの人が涙を流したのか。歴史はたえず非情の災害を生み出して世界のかたちを変えてきた。ふだん僕たちの目につかないだけでそういうことは今もたくさん起きている。そのような耐えがたい生と死の重みを僕たちは想うことそして祈ることしかできないだろう。脱線し続けた話はここで元に戻る。ダンスというのはあるコンテクストにおいて人間の祈りの形式である。あるいは死霊を送り、あるいは豊穣を祝うこともある。踊ることをつうじて人は何か目に見えないものとのコミュニケーションを模索している。言葉では到底伝うことのできない道すじを、身体を動かし空間を撼わすことで追い求めているその姿は何とも人間らしく人間にしかできないかけがえのない表現の様式なのである。踊りはやがて古典的な意味を失ってやがてコンテンポラリー・ダンスという新しい文脈をつくっていくことになるが、踊ることの意味は本質的に変わっていない。人間はともすれば言葉という便利な手段に頼りがちだが、言葉で伝えることができないものはこの世に数えきれないほどにある。そのような広大無辺な表現の地平を切り開くのが、身体性という人間の持ち得る最期の切り札なのである。

 

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