かおり

夜、残業を終えてオフィスを一歩出ると心地よい空気に身体が軽く感じる。ひんやりとまとわりつく潮風に海の匂いを感じてどこか遠い海辺へ旅に出たいと思う。ふわふわした気分で歩いていると、いつのまにか早朝のジャカルタを包みこむアザーンがこだまのように頭の中に鳴り響いている。そうだ、この空気はジャカルタに降り立ったときのそれによく似ているーー。そんなことを思い出しつつ電車に乗り込むと急に現実に引き戻されて少し寂しい気持ちになる。

梅の花の咲きはじめたあたりから春の花々の目まぐるしく華やかなバトンリレーが繰り広げられている。沈丁花の甘やかで上品な香りのあとにモクレンレンギョウユキヤナギが通りを彩るようになり、桜が咲くころにはもう数えきれないほどの野花がそこら中に広がっている。人の往来も心なしかふわりふわりと浮ついたように見える。今は桜が終わって、ツツジハナミズキが咲きはじめている。自分の大好きなノウゼンカズラまではまだしばらくといったところだが、それまで色とりどりの花かんむりが飽きさせずに楽しませてくれるだろうと思う。今は家の中でクチナシがつぎつぎ花開いて、部屋いっぱいに熟れた香りが広がっている。家に帰るとき、夜眠るとき、朝目覚めるとき、いつでもこの匂いが記憶に刻まれる。この花を家に呼んでから数年のこの時節の記憶が複層的に舞い降りてくる。今年も新しい記憶がうっすらと積もって心の地層を形づくるのだ。自分の中で香りに裏打ちされた甘やかな記憶はいつも強く強く存在感を遺すものであり、霞のかかった深い記憶の海のなかにある澪標みたいな存在になっている。

(写真はトキワマンサク

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