白妙の

宇多田ヒカルのFlavor of Loveという歌の歌詞で以下のような一節がある。

信じたいと願えば願うほど何だか切ない/「愛してる」よりも「大好き」のほうが 君らしいんじゃない?

理由はわからないけれど、この歌詞には自分の中に何かしら共鳴するものがある。思うに「愛してる」という言葉はその意味するところの崇高さゆえにたくさんの場面で酷使されすり切れ雑巾のように固く絞られ、逆説的にその価値が失われる運命にある。その点「大好き」ということばは、もともとが雑草のようにありふれた表現であって、相対的な価値喪失を孕みにくい、というのが個人的な感覚である。それはいち個人の経験的な理屈にすぎないとは思うし、この歌詞の意味しているところとは違うかもしれない。また自分ではそのように解されるけれども、実際にはそのような嗜好性は語感や語呂といったずっとプリミティヴな衝動の影響を受けているような気さえしている。

人間の気持ちを表すのに必ずしも適切な言葉が見つかるわけではない。そもそも何かを愛おしく思う気持ちをたったの一語で表さねばならないとして、そういった言葉が一体いくつあるだろう。そしてそれはそれら固有の気持ちのバリエーションに比べれば、途方もない程に少ない。ここに言語の不完全さそして危うさを感じ取ることができる。いったい、気持ちを表明したい欲求に曝されたとき、私たちはその気持ちを100%言語化することはできるのだろうか?言葉はいつだって万能に見えるが、あらゆるエネルギーと同じように変換の効率は100%に到達し得ないだろう。私たちはその困難さに直面し、絶望して、もはや口を噤むしかないとさえ思うことがある。而してそのような絶望から人間を救うのもまた人間、人間の理解力である。私たちはそのような言語化の困難さをいつも共有し、分有することで、そのような言葉による表現の欠落を補うことができる。そしてそれは、あるいは当初意図したものと受け手の解釈が異なるといったミスコミュニケーションを生み出す恐れがあるが、一方で当初の意図を超えて新たに高次の着地点を見出すといった潜在性ないし希望もある。それは人間と人間が生み出すことばのアルケミーで、魔術的に不思議で美しい作用を相互理解にもたらすことになる。結局のところ、言葉の困難さにたいする救いもまた言葉によるものであり、ある意味で宇多田ヒカルの歌詞は愛の弁証法じみたところがあり、その歌詞のコンテクストから半直線上に永遠の発展を遂げていく。

タイトルの「白妙の」は続くことばに掛る枕詞ではあるが、枕詞それ自体には大して意味がない。それは本来の白妙の意味をもたせてもよいし、そうでなくてもよい。一義的には、それは語調を整えるための一つの挿入句でしかないように見えるが、一方で残りの分節と絡み合って新しい印象を与えている。究極的には言葉それ自体はみんな枕詞みたいなものであって、その前後の文脈、ひいては人間と人間の関係性みたいに見えない複雑な紐帯をくぐり抜けて撚りあわせ、意味という織をなす一つの機構なのだろうと思う。

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