香合せ

春の匂いというものがあり、表現するのは難しいが……例えるなら埃っぽい土くれのようにも甘酸っぱい潮風のようにも感じる。単調でなく、複層的な匂いだ。ペトリコールみたいなものだろうか。それでコンセンサスがとれるかわからないが自分は春の匂いと呼んでいる。北風と太陽が旅人の外套を巡って争うのはきっと今ごろの時節で、そんな春の匂いも時に顔を覗かせるようになった。

 

萬鉄五郎という画家に出会ったのは2011年の「ぬぐ絵画」展(東京国立近代美術館)でのことだ。この人の作品は東京国立近代美術館の所蔵なので、常設展でもよく見ることができる。色々な理由があったと思うが自分はこの人の作品に最初衝撃を受け、そして惹かれるようになった。それは萬鉄五郎その人の作風によるものであることに間違いはないが、展のキュレーターであった蔵屋美香のことばが必要不可欠であったのではないかと思う。キュレーターは、ものを創る人のことを、ひょっとするとその人以上に理解しているかもしれない存在だ。理解、というのは少し適切ではないかもしれない。人の本質は極めて相対的なもので、それは解釈と呼んだほうがよいのかもしれない。行間、点と点の来歴、規則性なるもの――を、われわれは作品を通して解釈しようとするだろう。そしてその解釈について、自分の言葉で表現を試みる。ことばならざるもの、名状しがたいもの、ぐにゃぐにゃふわふわとして空を切るより手応えの感じられないものを、語りえぬ困難さを乗り越えて語ろうとする。その過程にまた創造がある。キュレーターである蔵屋美香は解説という名目の創造をしていて、それは感動的なまでに美しい存在に感じられた。陳腐な表現を使いたくないが、画家に対する理解というより、並々ならぬパッションが、その文章の一言一句から伝わってくる。僕はそれを賞賛するとともに、羨ましさ、あるいは嫉妬のようなものを感じる。表現しがたいものを表現できないことの悔しさのようなもの。それは単純に、対象に対するパッションが足りないということなのかもしれない。それでも何か表現したい、この作品の良さを伝えたい、この気持ちを伝えたいという思いで何かしら言葉にならない言葉を見つけようと言葉の海の暗い底でもがき苦しみながら、でもそれを表現すべき適切な言葉を僕は見つけることができない。何と愚かなことだろう!

けれども、語りえぬことを沈黙に代えて語ろうともがくとき、人は自分自身と向き合い、自分自身を理解しようとするだろう。その作品を通して、自分は自分のことを今まで以上に理解できただろうか?そうではないかもしれない。今まで以上に理解から遠ざかることさえあるだろう。しかし、そのように作品を通して自分と向き合わせてくれること、自分を見つめ直す時間を与えてくれることこそが、よい作品の数ある定義の中のひとつなのだと思う。


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