虎が雨

霧けむりの薫る朝、昨夜の雨をたたえた川沿いの桜の葉が恭しく川面に臥せている。今年の梅雨は心なしかいつもより雨が多い。

しばらくブログを書かずにいたらいつの間にか桜の時期も新緑も終わり雨の季節を迎えている。紫陽花も終わりがちでそろそろ百日紅が咲く頃だろう。時節は花盛り、雨にぬれる花々はいつもより一層麗しくかがやいている。

愛の成り行きの決定的な転機は必ずしも劇的な出来事から生ずるとはかぎらない。しばしば、一見まったくつまらない状況によってもたらされることもある。- ミラン・クンデラ『冗談』

愛について考えることはほとんど無くなってしまった。軽視するようになったわけではない。自分の中で好きと愛は海溝のごとき深い断絶のある概念だ。好きはインスタグラムで気に入った写真にハートマークをタップするみたいな表象的な概念というか、自己完結可能な概念(ということにしている)で、それは相対的にわかりやすいものだ。愛のイデアは依然として自分の胸に重々しくのしかかるテーマのようなものである。ただ、それが現実の生活とあまりにかけ離れているから、ただの言葉遊びをしているようにしか見えなくなってしまう。自分は語るに足らぬ存在のように思え、愛ということばを口にするのも憚られるようになる。

宗教的な観念としての愛と、世俗的な愛とは、あまりにかけ離れているようで実は連続していて、その境目は明確ではない。だからこそ愛の定義は広すぎるし、解釈の差分が生じてしまう。それらの意味づけや動機づけは、結局のところ自分だけのナラティヴに依存せざるを得ない。どれだけテクストを参照しても、ナラティヴとの接続がない限り腑に落ちる感じが得られない。自分だけのナラティヴを探し求める旅は途方もなく時に無意味で、時に攻撃的である。難しく考えすぎなのかもしれないし、考えるのにもエネルギーを使うので、何もせずただただその時を待つことにした。省エネモード。真実のように一義的な解を求めているわけではないし、その解が加齢とともに変わることもあるだろうと思うと、急いても仕方がないと思う。人生は劇的なコペルニクス的転回ばかりではないし、あまり重要視していないようなことがらでも気づきをもたらすことがある。そう思うとできるだけ気楽に構えていたほうがお得なんだよな。

これだけ言葉に悩まされるのは言葉がそこにあるからなんだろうか。愛とか好きとかのバリエーションが無ければ悩む必要もないだろうか?一方で、好きと愛の間に十個くらいの表現があれば、われわれはそれらを正しく使えるだろうか?一体、言葉が先なのか意味が先なのか全くわからない。シンギュラリティに到達したAIは、千年以上も続いた人間と言葉のあらそいをナンセンスなものだと言うだろうか。


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