愚故道

「ていねいな暮らし」という言葉がある。コーヒーは生豆を買いパンでローストしたものをミルで挽き、ハンドドリップまたはフレンチプレスで淹れる。人工よりも天然を愛し、添加物と過度の包装、コンビニ弁当を忌み嫌う、そんなライフスタイルをざっくりと形容するものである。しかし"ていねい"な暮らしとはいったい何であろうか。まるでそれ以外のライフスタイルを言外に否定しているみたいだ。ていねいな暮らし信仰は、それ以外の"雑な"暮らしを排他するようにも思える。荘子外篇、天運に以下の節がある。曰く、「樂也者、始於懼。懼故祟。 吾又次之以怠。 怠故遁。 卒之於惑。 惑故愚、愚故道。」愚なるが故に道あり。何もかもわからない愚の状態、人間の知識が介在しない生のあり方こそが本当の道である。それは何も天然を愛せということではなくて、現代風に解釈するならば、外からどう見られるかを気にしていては本質にたどり着けないことを意味しているのではないかと思う。「ていねい」は本質的に意味はないし、他人の目を気にするというのは空っぽの行いであるし、人間は結局のところわけがわからない気持ちになりながらもおのおのの生を愚直に生きることによってしか救われないのだ。

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