天秤座

てんびん座のアルファ星とベータ星はそれぞれズベンエルゲヌビ、ズベンエスカマリという固有名を持つ。てんびん座がさそり座の一部であった頃の名残りだろうか、アラビア語で南の爪、北の爪を意味している。蠍の爪の形をしたそれは、ギリシャ神話によれば正義を秤る天秤である。

こころに抱える天秤はひどく気まぐれで、同じものを載せているのに右に傾いたり左に傾いたりする。日和見主義の天秤などもはや天秤と呼べる代物ではない。起きている出来事は同じなのに、それを楽観視できるときとそうでないときがある。一年前に言っていたことと全く矛盾した発言をしてしまうこともある。人間は昨日と今日、一時間前と一時間後、一年前と一年後で連続性を保ちつつ同一ではない何かをかたどっている。

目の前の人間が語っている何かを好意的に捉えられるかそうでないかは、その日あった出来事や天気や体調にものすごく左右されることがある。相手の身につけている腕時計に照明の光が反射してちらつくとか、白いテーブルクロスの上に点々と落ちているパンくずだとか、そういった普段は気にならないかもしれない些細なことが妙に気になることがある。ずっと運動していなかった人間が長距離を走るとき、眠っていた毛細血管が活動して全身が不快なむず痒さに襲われ、身の回りの何もかもが不潔でごちゃごちゃした世界に写ってしまう。目の前の人間がしているのはただの世間話だし、街の景色は走る前後で変わったわけじゃない。天秤の上に置かれたものは同じなのに、狂った時計の針のように右に振れたり左に振れたりを繰り返す。

天秤を手にしたおとめ座の女神アストライアーは、神話の神々の中で最後まで地上に残り正義を訴え続けたが、結局人間たちは殺戮をやめることなく最後の女神も星の乙女になってしまった。アストライアーは本当に人間を見限ったのか、それとも人間が天秤の存在を忘れないように夏の夜空の星となったのか、今宵も二つの爪は等しく光り輝くけれど、そんな星たちに意味づけをしているのもまた僕たちの心の天秤の気まぐれが生み出した作用である。


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