理髪店

子どもの頃に通っていた床屋のおばちゃんは元気だろうか。今はおばあちゃんだろうし、その床屋はしばらく前に店を閉じた。二千円くらいで髪を切って顔剃りをして、台所のシンクみたいなところで髪を洗ってもらう。顔剃りは子どもなので要らないといえばいらないが、シェービングブラシで泡だてられたクリームを顔に延べ、剃刀でつるりと撫でられる体験は月に一度あるかないかの非日常だ。それに待ち時間には備え付けのドラえもんの映画原作本を読むのが楽しみだった。横に並んでいた女性自身とかいう雑誌はいつも何だか意味がわからぬことばかり書いてあり、大人はこんなつまらぬものを読んで楽しがっているのかといつも不思議な気持ちであった。退店するときに百円のお駄賃をもらう。二千円は親から払われて、そこから百円のキャッシュバックが自分の懐(正確には掌)におさまる。考えてみるとおかしな循環なのだが、そこは子どもなので気付かない。あの頃百円の使い道には夢があった。二十円くらいのガムやら駄菓子をいくつか選んでもいいし、アイスを買ってもいいし、ガチャガチャを一回回してもいい。駄菓子屋の店番をしていたのもまた別のおばちゃんであった。身の回りにはたくさんの有能で勤労なおばちゃんがいた。一方、おじちゃんたちも家で寝っ転がって高校野球プロ野球を眺めているだけではなくて、耕運機と稲刈り機を乗り回し、夜には田んぼの水の様子を見に行き、朝露の乾かないうちから外に出て、自ら手塩にかけて穀物と野菜を生産していたのであった。これが自分の子どもの頃の世界で、世界はよく働くおじちゃんとおばちゃん、おじいちゃんとおばあちゃんによって牛耳られていた。若い大人は皆カイシャとかヤクバとかいうよくわからない建物の中にこもって何かをしているらしくとんと見かけぬ。やはりおじちゃんおばちゃんたちがこの世の担い手なのだ。すごいなあ。そんな自分の面倒をみてくれたたくさんのおじちゃんおばちゃんたちのことを少しだけ思い出した。

f:id:cuunelia:20180910210532j:image