野良猫

近所に野良猫がいる。帰り道に会ったり会わなかったりする猫で、毎日定位置で寝転がっていたと思えば一ヶ月ほど姿を見せないこともある。人懐こい性格で、静かに近寄れば撫でさせてくれる。最近は急に寒くなってきたせいかいつもより多めにすり寄ってくるようになった。吹きさらしにじっと香箱を作っている姿を見ているとこの猫に帰る家を与えてあげたいという気持ちになる。自分は猫を揉むだけで餌をあげることもなければ屋根を与えることもない。野良と知り合い以上の関係性を持つことはない。それは何かいのちに責任を持つということに他ならないような気がしてしまう。しかし飼ったところで命に責任を持つというのが本当かというとそうでもないような気がする。猫にとって人間は同列の存在で「飼い主」という名前は適切ではないかもしれない。猫を飼うということは何かしら猫の自由を奪ってしまうことになる。その代わり猫はあたたかい寝床と毎日の食事を享受する。ギブアンドテイクに見えるその関係は、別に猫が選んだものではなくて人間が制度として与えたものだ。猫はその制度の中で生きている。猫は制度の不自由を感じているだろうか。もちろん感じることもあるだろう。けれども不自由なりの幸福や愛というものを感じることもあるかもしれない。猫に幸福なり愛なりの感情があるかわからないが。猫を飼う人だって最初から猫を不幸せにしようとして飼うということはないだろうし、猫にたっぷりの愛情を注ぐだろう。そんなことを考えていたら野良猫に甘噛みされてはっと我にかえる。

Twitterでフォローしているはなももさん(@hanamomoact)という方は、アルアインの砂漠で数十匹の猫(と犬とガゼルとウサギとラクダ…)と暮らしている。猫たちは広々とした庭で、時には広大な砂漠で、毎日をのびのびと生活しているように見える。猫の生活エリアというものは、本来こんなにも広いのだと気付かされる。それはもう、飼っているというよりも一緒に暮らしている、自分にとっては理想のよりそい方だと思う。もちろん、それはSNSや著者を通じて見ているだけで、はなももさんが考えている生活のあり方と、自分に見えている理想のあり方というのには開きがあるのかもしれない。

数十匹もの猫と暮らしていれば、それだけ死も頻繁に訪れる。それらの死は、一匹の猫と暮らしたときの悲しみの数十分の一になるわけではないし、一つの死は一つの死としてとてつもない重さとなる。死が近づくとき、あのとき何をしてあげればよかったのか、自分はどのように死を迎えるものに干渉すればよいのか、自分の気持ちにどう折り合いをつけていくかーー、答えもない、どうにもしがたい思いが逡巡する。それは人間と人間の関係性においてもそうだ。『春は馬車に乗って』の「彼」と「妻」の関係性にも似たような逡巡を感じることができる。

猫を撫でて感じるあたたかさ、人の胸に耳をひたと当てて感じる心臓の鼓動、老いとか病とか、灰色のときもめくるめく輝きの色のときも、それらは生きていて、関係をつづけている。いくら触れてもそのものの感情を再現することはできないから、人は近づこうとして逡巡を重ねる。おおよその場合、答えは出ないだろうが答えに近いものを探そうとする。誤りを生むこともあるだろう。その関係は弁証法的に見えて全くそうではない。生産性もなくて、何かしら原始的だ。けれども、人にとって何か大事なことが残されている気がして、そこにぐるぐると留まっている。

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