塩の道

 

 

思い出し話を一つ。

しばらく前の話になるので少し記憶がおぼろげだけど、大学の研究室に進んだときの一つ上の先輩。その人は、フランス帰国子女らしく、フランス文学が好きだった。自分の仲のよかった先輩と知り合いでもあったので、たまに飲み会で顔を合わせたりすることがあった。つながりといえばそんな程度で、二人きりで話したこともなく、仲のよい友人というべき関係でもない。ただ、その人がSNSで書く文章には、えもいわれぬ共感と、そして魅力があった。その魅力を表現することは難しい。儚さ、が一番近いかもしれないが、それだけでは十分に表現できない。自らの情動に対して素直な表現で、それでいてやわらかさと強かさの相反する側面を孕むような、そんな文章だ。僕はその人のことが、好きだったのかもしれない。その時は、魅力は感じていても「好き」とは異なる感覚だと思っていた。それに、僕はその人の文章を通してしか、その人のことがよくわからなかった。飲み会や研究室で喋っているときの何気ない会話からは、心の深いところを揺り動かすようなやり取りは、もちろん得られなかった。

いま考えてみると、それはある種の「好き」であったと言えるかもしれない。「ある種の」と前置きするのは、多様な定義を留保するための逃げ道でしかないものの、それは確かな片想いで、憧れの一線をこえた感情であったと思う。後にも先にも、そんな不思議な感情を抱いた相手はその人以外にはいない。

 

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この文章は最近読んだある文章に着想を得て書かれた。返歌的といったほうが近い。ただし直接的な応答ないし感想というべきものでもない。それでもその文章がなければこの文章は成立しないから、ジュリア・クリステヴァのいうところの間テクスト性に近い。

広い意味のテクスト――それは文章だけでなく絵画や造形を含む―ーに契機を得て表現の欲求を感じ、そしてそれを表現するといった一連の行為は、はじめあったテクストの複製ではなく、アメーバが分裂して全く新しい姿かたちをつくるのに似ている。テクストの遺伝子が新しいテクストに引き継がれて、解釈と系譜によって全く新しいものに生まれ変わる。間テクストの概念はおそらくもっと広く、引用なども含まれるだろうが、個人的には昇華的というべきか弁証法的というべきか、そんな生成の瞬間が結構好きだ。文章をよく書く理由にはそういうところも寄与してるのだろう。


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