谷根千

台東区谷中から文京区根津、千駄木にかけてのエリアは通称谷根千と呼ばれている。谷根千の呼称はそれなりに古く、80年代に刊行された同名の地域雑誌で広くその名が用いられるようになった。もともとこの区域は山手線の内側でも戦災の影響をあまり受けなかったらしく、下町らしい雰囲気が共通している。

谷根千は上野山と本郷台の間の谷に位置していて坂の多い街だ。いまは暗渠化しているが谷の間にはもともと藍染川(谷田川)という川が不忍池まで通じていた。根津から千駄木に至る道の一つにへび道という曲がりくねった道があるが、ここに藍染川の痕跡を見てとることができる。

大学2年の秋、キャンパスの変更にあわせてそれまで住んでいた下北沢から文京根津に引っ越した。大学までは毎朝言問通りの急な坂を自転車で上っていたので、坂の多い地形であることは恨みがましくもあったが、歩く分には起伏に富んだ地形は面白い。とくに文京区の坂はそれぞれ由緒が深く、ご丁寧にも坂名とその由来が看板に記されている。根津神社の南手から東大農学部にかけての坂は権現坂ないし新坂というが、鴎外の記述に由来してS坂とも呼ばれていた。三四郎をはじめとする漱石の著作の中にも、富坂や動坂など文京の坂がいくつか登場しており趣深い。

個人的な根津の思い出は楽しいものばかりだ。巣鴨で飲み明かしたあと土砂降りに遭いながら帰宅したり、神楽坂でも飲み明かして帰りに言問通りにゲロを撒き散らしたりした。飲みの話になると根津自体はあまり多く出てこない。下町らしくネオンサインも少なくて、夜に賑わう街という感じではないし、なんならコンビニもそう多くはない。とはいえ、小粒ながら遅くまでやっていて雰囲気のよい飲み屋は意外とたくさんある。友人と勢いで初めて入ったスナックは小ぢんまりとしていたが手入れが行き届いていて、着物姿のママも丁寧に応対してくれた。カラオケもなく静かな店で、場所柄お医者さんが多いようだ。ママの息子さんはエッチなライトノベルを書いているらしく、カウンターに置かれた二次絵の表紙の著書が妖しく光り輝いていた。少し背伸びしてみたくなってウイスキーを初めてストレートで頼んだ。バカラらしいショットグラスに入ったグレンリベットは、喉元で焼けるようにして身体の中を流れ落ちた。そのスナックに行ったのはそれっきりで、場所も朧げにしか記憶がない。最近は夜に根津にいることはあまりないのだが、ウイスキーの味が好きになった今ならまた訪れてみたいと思う。

根津に商店街らしい通りはあってもあまり栄えてはいない。その代わりといってはなんだが、谷中には谷中銀座という比較的大きな商店街があり、休日になるとまっすぐに歩けないくらいの人で賑わっている。個人経営の食材、雑貨、喫茶などの店が並んでいて、どのお店も個性があって足を止めてしまう。不忍通り側から商店街に入ってすぐのところに酒屋があり、そこで数百円払うとプラスチックのカップに生ビールを入れてくれる。商店街を散策しながら飲んでもいいし、近くの惣菜屋でメンチカツを買うと、酒屋の軒先の酒瓶ケースが即席居酒屋に早変わりする。商店街を抜けた先にある階段は夕焼けだんだんといって、その名の通り夕景の眺望が美しい。観たことないが三丁目の夕日って多分こんな感じ。ここで野良猫と一緒に夕焼けを眺めるのも良い休日の過ごし方だろう。

夕焼けだんだんを上がって上野桜木方面に足を運ぶと徐々に寺町の装いになり、坂の下の町並みと雰囲気が少し変わってくる。谷中霊園も緑豊かで散策には丁度いい。先輩と二人で根津駅前の赤札堂で金麦を買ってほろ酔いになりながら文人名士の墓を覗き見して歩いたのもよい思い出だ。なんか飲んだくれてばかりの回顧録になってしまったな。酒ついでにもう一つ紹介しておくと、不忍池の手前にあるはん亭という串揚げのお店もおすすめできる。季節によって揚げ物のラインナップが変わるがどれも素朴な美味しさに溢れている。谷中生姜の串揚げは是非一度は味わってほしい。このお店は丸の内などにも支店があるが、本店の昔からの日本家屋の畳の間で串揚げが出てくるのは雰囲気が全然違う。お酒のラインナップが多い店ではないし、別にお茶でも全然合うのだけど、個人的には米焼酎と合わせて頂くのが好き。

谷根千には谷根千という区域で終わらない拡張性がある。例えば谷中から藝大を過ぎてゆくと上野山、つまり上野公園に至る。根津から本郷に至れば東大があり、本郷通りには喫茶の名店が立ち並ぶ。下町の典型とはまた違う文京の住宅街を歩くのも面白い。千駄木谷中を抜けて日暮里から山手線の外側に出てみても良いだろうし、寛永寺陸橋のあたりから突然現れる鶯谷のラブホ群も意外性があって面白いと思う。そんな感じで谷根千への思い入れは下北沢と同じくらい深い。といっても下北沢と違ってこの街は変化のスピードがとても遅いらしく、粗製濫造のチェーン店にも侵食されていないので、よくある金太郎飴のような同じ顔ぶれの並んだ街になりにくいことが非常にありがたい。金太郎飴といえば、根津神社に向かう途中には金太郎飴の老舗があり、ここもオススメ。きりがなくなってきたのでこの辺でやめておこう。


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