思い草

理由もなくせつない、言葉にならない不定形の感情が、胸に押し寄せては優しく波風を立ててゆく。夜になると半袖では少し肌寒くなってきて、東京でも少しずつ秋の気配を感じるようになった。

先日、はじめて向島百花園を訪れた。夏の間は花を愛でるということをしばらく忘れかけていたが、9月の中頃、夏前からカレンダーに仕掛けておいたリマインダーのポップアップが紫苑の見頃を伝えてくれた。この頃の向島百花園は、どちらかと言えば萩の花で有名なのだが、それ以外にも紫苑をはじめとした秋の草花にあふれていて趣がある。

紫苑の花には個人的な思い入れがあり、いつかこの目で見てみたいと思っていた。(多分これまでにも見たことはあるのかもしれないが、それと認識して愛でるということをしてこなかったと思う)

紫苑は石川淳の『紫苑物語』に出てくる花だ。石川淳は個人的に大好きな作家の一人であり、紫苑物語はその代表作でもある。弓の道を極めんとする守は、狩りでは満足できず次第に家人でさえも弓の的にしてしまう。紫苑はその射られた血を吸った土に植えられる象徴的な花だ。

 

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大学の教養でとっていた仏語の教官のことばで、今でも印象に残っていることがある。マルグリット・デュラスの『夏の夜、十時半』という作品がある。フランスにおける夏の夜の十時半は、まだ陽の明かりが残っていて、日本の夏の夜とは全然違うものだ。フランスの夏の夜を経験しているのといないのとでは、同作の感触は全く異なるものになるだろう――というもの。仏語もろくに身につかなかった自分だが、このことばだけは妙に印象に残っていて、それからの読書体験に終始影響を与えることになった。大学最後の春休みで一人米子に行ったのも、暗夜行路に描かれる大山をこの目で見たかったからだった。(本当なら、謙作の体験に従って山の中腹から明け方の景色を眺めるべきだったかもしれないが)

 

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紫苑は人の背ほどに徒長する。

紫苑物語の中で、歌人の血を吸って咲きほこる薄紫の花はこんな感じであったのだろうかと想像すると、数年前に読んだこの作品の読後感が生き返り、また違った命を吹き込まれたように思える。

 

小説にはかくのごとき良さがある。小説の中身は同時代同地点のものということもあるし、遠い昔のできごとであったり、空想上の世界のエピソードであったりすることもあるのだが、そこで見ている光景や抱いた感情、苦しみ悲しみ喜びが、われわれの何かしらの実体験と交錯して、まるで目の前で生きているように胸の鼓動と共振をはじめる。そして、いつしかふとした瞬間のどうということのない体験によって、その小説に新しい命が吹き込まれることがある。そんな時ほど読書のありがたみが感じられる。自らの血肉となり、心の奥底で共存するようなかけがえのない読書体験は、そうそうあるものではないと思うが、そういうことがあるから今日もまた新たな本を手にとるのだろうと思う。

 


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