針茉莉

観測史上最も長い梅雨が明けて今年も夏はやってきた。もちろん暑いことは暑いけれどまだ夜は涼しいし、蝉もいつもより弱々しく鳴いていて本調子でない感じだ。それでも昼間にマスクして外出するのはなかなかにつらい。

流行り病の話題に触れるのはあまり気が進まないのだけれど、いつか振り返ってみたいときに手にとれるように少しだけは書いておこう。感染者数を日毎に追うのはあまり意味がないのでしばらく前にやめた。毎日200人とか300人とかそのくらいの人数が報告されているらしい。経済と公衆衛生がトレードオフみたいに語られていて、部分的には正しいかもしれないが単純化されすぎている感はある。誰も答えを持っていない世界でポジショントークにならないようにするのは結構至難の業であるし、困難な時代ほど確証バイアスは蔓延する。混迷の極みってこういうことを言うんだな。今の政治を眺めていると「取りまとめ」って本当に重要な役割だなーと思う。

 

話は変わって、今日は今年初めてハリマツリに出会うことができた。夏に咲く花で軒先に植えられていることもあるけど都内でそれはど出会えることはない、そんな花。南国原産らしく、去年訪れたビエンチャンでは沢山見かけられた。紫色で小ぶりの可愛らしい花。

個人的に夏といえばルリマツリとハリマツリが印象深い。夏だったら朝顔サルスベリ、ひまわりあたりのほうがメジャーかもしれないが、こういう低木の花は、理由はわからないけど親しみが増すのだ。

 

相変わらず憂鬱で何も手につかず、暇な時間さえ何もすることができない時期がしばらく続いたけれど、梅雨が明けるか明けないかくらいから少しだけやる気が戻ってきたような気がする。それでも10分の1くらいだけど。

そんな少しのやる気を使って、ここ2、3年ほど離れていた読書を少しずつ再開している。文章を書く力に衰えを感じるのはきっと本を読まなかったせいというのもあるだろう。元気に旅ができない今だから、静かな文字の海を航りたい気分なんだ。

 

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ラムネ

カメラロールの整理をしていたら去年も一昨年も同じ時期に夢の島の熱帯植物園に行っていたらしい。なぜか夏に温室に行きたがるのは、夏休みに南の島に行きたいみたいな衝動と同じだろうか。


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同じ場所、同じ植生、しかしそこにある人間の営みだけがいつもと異なっている。夢の島は今年アーチェリーのオリンピック会場になるはずだった。

アクリル板で仕切られた新しい世界をいま生きている。夏休みに旅に出ることすら憚られる新しい世界。できないことに目を向ければ暗くなるだけだが、この世界でできないことは結構多いのだ。まぁ移動手段が近世並に退化したとでも思えば良いだろうか。やろうと思えば実現できるが心理的には実現されない状態はまぁまぁしんどい。特に国内旅行。本当なら毎月のように京都に遊びに行きたいのだけれど。

新しい世界で良かったと思うこと――飲み会は本当に少なくなって良かったなと思う。ZOOM飲みとやらも皆飽きたのか下火になってきた。友人たちと気軽に飲みに行けなくなってしまったのは痛手だが、もともとそんなに沢山飲みに行くほうでもなかったのでストレスは少ない。たまに美味しいご飯を食べたくなったら一人で行くこともできる。美味しさを分かち合う相手がいないのは少しだけ寂しいこともあるけれど。


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生活に振り回されているから生活のことしか書くことができない。毎日のようにデパ地下に通い詰めてサラダを買い付ける生活も別に好きでやってるんじゃあないんだよ。1ヶ月後に海外に行く「かもしれない」生活をする気持ちになったことがあるか?本当にやめたいよこんな生活。

 

 

 

夜の街

精神的に余裕がないときほど部屋の散らかり具合がひどい。要するに掃除をするための時間を自分を甘やかすことに費やしている。そうして部屋の自由度が低くなって更に心に余裕が無くなる。そういう悪循環を断ち切るために週末こそ部屋の掃除をと意気込むが、翌週に最悪な仕事が待ち構えていたりすると本当に何もする気が起きない。最悪な仕事なんで毎週のように生まれるから最悪でも何でもない、ただの悪だ。

一日一度くらいは少しでも外出したいと思うけど最近はとんでもなく街の人出が増えたのでなるべく人の少ない夜に出歩くことにしている。「夜の街」という言葉は随分と悪い印象を与えるものになってしまったけれど、自分にとっての夜の街は人のいない静かな街だ。

夜の12時前のソニーパークには、銀座のど真ん中の割に良い具合に街の死角になって人がほとんどいない、いわば特等席のような場所がある。一時期毎日のようにそこで何もせずただただ寛いでいたのだけれど、最近は時折カップルの憩いの場と化していて行きづらくなってしまった。そういうときはもう少し足を伸ばして日比谷公園まで行くことが多い。

いつから(海外赴任に)行けるのですか?とよく聞かれるようになったがそんなこと自分にだってわかりっこない。いっそのこと白紙に戻してほしいとも思うけどそれも難しい決断なのだろう。ともかくも自分はただ待つことしかかなわない。別に浮いた時間で自分磨きをする気にもならない(そもそも生活をすることだけで手いっぱいだし)、ただただ漫然と日々を過ごしている。無性にピアノを弾きたい気分。


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香り水

湿度100%という表記を見て思わずふふっと笑ってしまった。日が沈む前の上野公園は珍しく霧に包まれている。肌にまとわりつく6月の水の精と重たく影を落とす分厚い雲。去年の今ごろ稲毛まで花を見に行ったときに降っていた雨をふと思い出す。6月の雨は生温く、あふれる涙が頬を伝うようにさらさらと肌を流れ落ちてゆく。少々の雨なら傘をささずに歩くことが増えた。

積極的に人と交わることのない今、自分の心が揺り動かされるとしたら、それは空のうつろいと花の色香くらいになってしまった。去年ほどではないが今年もそれなりに花を愛でていると思う。特にこのひと月は一年で一番好きな花が多く咲く時期だと思う。もうそろそろムクゲの花が咲いて夏の花にバトンタッチしてゆくのだ。春にはにほ日本を出るはずだったのに未だに状況が変わっていない。何も変わらないことに対して特に不安も憤りもないが仕事のやる気も出ない。けれども花のおかげで心の健康は保てている、気がする。日本にいるならいられるだけ日本の花を楽しみたい。相変わらず元気にやってます。

 


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回顧録

夏至の少し前の夜10時、気まぐれで会えるかもわからない人のことを待ちながら、渋谷スクランブル交差点の様子をスタバの席から眺めている。もうずいぶん前に飲み終えたアイスコーヒーは、もう氷の影も残っていない。その時暇つぶしのために持ってきた本は何だったろうか?もう十年以上も前の話だからほとんど覚えていない。スマートフォンもない時代、まさか携帯一つで何時間も粘れたとは思えない。「フィンチの嘴」だったかもしれないし、国際関係論のテキストだったかもしれないあるいは、村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」か。オシャレぶってデリダの「パピエ・マシン」を読んでいた可能性もある(内容なんてさっぱり頭に入ってこなかった!)。その頃の自分は、石川淳にも横光利一にもまだ出会っていない。村上春樹も「アンダーグラウンド」を読むのは大分あとになってからのことだ。真面目に勉強をやっているような学生ではなかったはずだし、映画にハマるよりも少し前だ。あの頃の時間のつぶし方を思い出したい。

 

別な日、御成門エクセルシオールで同じ人を待っていたことを思い出す。それは冬だったか夏だったかすらわからない。ただ、御成門の駅を出たあの交差点の、なんの変哲もない風景のことをよく覚えている。まさか数年後にその近くに住むことになるとは思ってもいなかった。東京に来て間もないあの頃は、東京の地理にも疎くて手のひらサイズの地図帳を風呂でひたすら眺めていた。東京タワーに一番近い駅といえば御成門芝公園で、東京の西に住んでいた自分にとっては馴染みのない駅名だったと思う。あの頃の風景に虎ノ門ヒルズはまだ登場しないが、ビルのたち並ぶ光景がなぜかとても魅力的に見えたと思う。

 

プルーストの記憶の大伽藍にはほど遠いが、音や香り、見たものなど、何かの刺激をきっかけに断片的な風景と出来事の記憶が掘り起こされることはよくある。そしてそれはだいたいにおいて、良くも悪くもない、なんの変哲もない出来事だ。上の話で言えば、どちらかと言うとより大事そうな出来事に思える、そのとき待ち人に会えたかどうか、会ったとしてその後の時間をどう過ごしたかすらもう記憶には残っていない(その頃の待ち人は、会う約束をしていても相手の気が変わって会えないことも多かった)。

 

いま、夜の銀座を、紫陽花に囲まれながら歩いている。最近降る雨は小ぶりなことが多く、傘を差さずに歩いても心地よいくらい。人出は少し戻ってきたと思うけど、夜の街はまだ全然寂しい空間だ。いまは誰を待つこともないし、誰かを待つためのカフェもない。夏の前の日比谷公園では、人の声よりも蛙の輪唱が響いている。後になって思い出すとしたら、この光景はどんな風に切り取られ、その時の自分にどんな感情をもたらすだろうか。


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閑日月

特にすることもなく連休はあっという間に過ぎていった。どこにも行かず、特にすることもない連休というのはそれはそれで新鮮な経験で悪くないと思った。暇といえば暇だが、逆に言えば気が向いた時に気が向いたものに手を出せばよいだけ。遠出できないという足枷は、気にしなければどうということはない。どうということはないけれど……半年分くらい自分のブログを遡って眺めていたら少しだけ遠くに行きたい気持ちが増した。いつかまた、予定も決めずふらっと京都に遊びに行きたいな。植物園で花を愛でたり、大好きなバーでカクテルを傾けたりしたい。したいことがずっと手の届かない先にあることを思うと憂うつな気分になってしまうから、今は身近なことを考えようと思い直す。

夕食の冷凍食品をあたためる間、ふと輪廻転生のことを思う。死んだのちこの世に新たな生を受けるとしたら、自分は今ほど恵まれた人生を送っているだろうか?……どうしてこんなナンセンスな問いを立ててしまったのだろう、しかしこんな世界でも自分はまだずっと恵まれていると思う。気持ちが閉じてしまうと自分のこと、自分の願望にしか頭が働かなくなってしまいがちだけれど、こういう時にこそできる限りあたたかい気持ちで他人と接していたいと思う。他人と接する機会なんて今やそうそうあるものではなくなってしまったけど。


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夜明け

窓を開けている。そこに人の声はなく、疎らに走る車の音と、ビル群にありがちな何かしらの環境音、そしてたまに烏の鳴き声を遠くに聞くくらい。暑くもなく寒くもなく、気だるさと心地よさが一体になったような奇妙な感覚が続く。

在宅勤務でしばらくひきこもっていたせいか、それとも重苦しい仕事が続いていたせいかわからないが、最近は憂うつな日々を過ごしていた。この連休はちょっとした救いの手のような感じがした。もちろんどこかに出かけるというわけでもなく、仕事のことを気にしていなければならないことには変わりないが、今みたいに気のおもむくままに夜ふかししても構わないし、家で好きなときに好きなことが、土日よりも少しだけ長い間できる。それだけで十分な気分転換になっていると思う。

今年もまた春がやってきて、たまに街を歩きながら色々な花を見つけるのがとても楽しい。以前のように電車に少し乗れば行けるような場所ですら今は行かなくなってしまったし、旅行なんて尚更できないけれど、別に家の周りを歩くだけでも、風が運ぶ緑色の香り、街路を飾り色うつろう躑躅の花、わざわざ探すまでもなく自然は五感を刺激する。

並木通りに並ぶシナノキの瑞々しい葉の隙間から五月の陽光を透かし見ると、世界は去年までと何も変わっていないような気さえする。それは果たして錯覚なのだろうか?


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