春の夜

以下は2020年3月22日に書いたもの。当時は文章にまとわりつく重苦しさに耐えかねて投稿をするのをやめていたけど、気持ちも少し落ち着いてきたので当時の記録として残しておく。

 

"外は生暖かく強い風が吹いている。もう桜も満開だというのに週末は雪が降るらしい。土日に迫る外出自粛を目前に人々は心なしか浮き足立っているように見える。目に見えないすりガラスの影は灰色の雲となって人々の心を分厚く覆っている。

 

オリンピックが延期になり、自分の海外赴任の予定も同様に延期になった。もう荷物は倉庫に手配してしまったので部屋には冷蔵庫も洗濯機もない。この部屋も一週間もしないうちに出ていかないといけない。このご時世に住む家を持たない根無し草になるのは笑えてくる。まぁそんなことはこの世界の重大な転回からすると全く意味を成さないほどに小さいだろう。とはいえ、自分一人の行動が、何千何万と枝分かれし浸潤していく病の一端になっている(それも知らず知らずのうちに)としたら、それほどに末恐ろしいことはない。"

 

灰色の雲は相変わらず世界を覆っていて、光の兆しすら見えないような状況の中を生きている。人のいない街で季節だけが時計の針を進めている。

 


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オペラ

2月22日東京芸術劇場で公演されたオペラ「ラ・トラヴィアータ」を観劇した。オペラ観劇は生では今回が初めてで、観ようと思ったきっかけは矢内原美邦さんが演出だったから。矢内原美邦さんは以前のエントリーでも触れているけど演劇とコンテンポラリーダンスの人。オペラ界隈にとっては馴染みのない演出家ということになると思う。他人の評から先に言うと、カーテンコールで指揮者・出演者に対して拍手喝采とBravo!が繰り返される中、この人が出てきたときだけブーイングが起きた。さもありなん、というのは公演前からある程度想像していたことだったが、個人的にはとても良かった。もちろん出演者も指揮者、演奏は文句のつけようがないくらい(特にアルフレード役の宮里さんは素人目ながら素晴らしい声だと思った)だったけど、1幕の夜会で揃って登場するシーンからもうね、矢内原さん「らしさ」が存分に感じられてヤバいヤバいって思いましたよ。何でヤバいのかっていうと、上流階級趣味のクラシックなオペラと、ある種アングラ味のある演劇って完全に袂が別れてるんです。その異分子同士を持ち込んだらどうなるか。シナジーとかいう聞こえのいい表現ができたらそれは良いだろう、しかしそこにあるのは「ぶちこわし」これだけ。予定調和の文脈をぶった切って観客我に返る。はて、自分は今、いったい何を観に来ているのか?そう思わせたら勝ちなんですよ。上流と下流、見るもの見られるものの関係性は常に一方向ではないし、複層的なものでもある。そういうメタな視点を与えることがこのオペラの裏にあるテーマでもあると思うのだ。何か真新しいことをやろうとしてやりきれず、失敗した、意味不明、そういった意見もあると思う(特にオペラが好きで観に来た人ほどそうだろう)けれど、少なくとも個人的には実験的かつ現代に即した素晴らしい演出だと思った。何度も言うけど出演指揮演奏衣装全部良かったよ。あとオペラは金ケチらずS席で観るべき。次はオペラ座でオペラを観よう。


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真南風

しばらくの間日本を離れることがほぼ確定したので今のうちに国内旅行に行っておこうということで沖縄。暖冬ということもあるかもしれないが2月の沖縄はめちゃくちゃに暖かい。4月の東京くらいの暖かさはあると思う。あったかい場所最高です。

ランボーのうたう太陽にとろける海、南の海の香り、踏みしめる珊瑚の砂。何もかも日常とかけ離れていて夢の中にいるみたいだった。

あー本当に日本出たくないな。海外に行って改めてわかる日本の良さが大好きだ。カズ・ヒロも言及していた日本の悪しきカルチャーみたいなものは自分も好きじゃないんだけど、そういうことでは片付けられないんだよ。日本人論は好きじゃないけど日本という土地は好きといったところだろうか。海外嫌いなわけではなくて海外に行くのも大好きなんだけどな、でも長くは住みたくないなと思ってしまう。それもしばらく住んだら変わるだろうか。今の安定した環境が激変するのが怖いだけかもしれない。旅は非日常だが住むことは日常で、日常を変えるにはそこそこエネルギーがいるんだろうな。ともかく落ち着くまでは頑張ろ。


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毛糸絵

1. 最近。目の前で起こっていること全部が、ディスプレイに流れる映画のように映って主観から遠ざかる。住んでいるワンルームの天井もベランダから見える高層マンションの明かりも全部現実なのだけれど現実味がない。それはそれで悪いことではないとも思う。精神は透明で薄くやわらかい殻にこもっている。

2. 仕事。しばらく前に同僚がメンタル病んで会社を辞めることになってから仕事に全力投球するのをやめた。いや、もともと全力投球なんかしていなかったけれどちくちく嫌なことを我慢するのはやめた。自分よりも優秀な同僚がこんな理由で辞めてしまうのが本当に腹立たしい。このせいで一時期ストレスが爆増して、頭がハゲ散らかす夢を見たりチュニジア地球の歩き方を熟読したりしていた。

3. 冬眠。11月にポケットモンスターソードシールドを買ってから最近までずっとハマっている。色んな角度の面白さがあるので気になる人は公式の紹介や実況動画を見てほしい。自分は8世代目にして初めてランクバトルに挑戦している。なかなか勝ち越すことができないけど今のところ負けてもめちゃくちゃに楽しい。あまりにも家から出なさすぎなので少し太った。

4. 京都。先月頭、半年ぶりくらいに京都を訪れた。いつも三条大橋出町柳近辺をうろついているだけで楽しいのだけれど、今回はしばらく行っていなかった北野近辺を散策してみることにした。達磨寺、釘抜地蔵、大徳寺。幸い紅葉にもぎりぎり間に合った感じ。偶然入った先斗町のジャズバーで思いがけず良い夜を過ごせたが、会社の上司の顔が頭に浮かんで十分に音楽に聴き入ることができなかったのが悲しい。

5. これから。先のことなのでまだわからないがもしかしたら近いうちに海外に赴任することになるかもしれない。仕事で海外に行くたびに日本大好きだなー自分って感じてるのに海外駐在とか大丈夫なんだろうか。まぁ色々と悩んだ末に自分なりに決断したことでもあるので、なるようになってくれ。ということでこれからしばらくは日本を満喫したい。

6. 芸術。来週から国立新美術館でDOMANI・明日展がはじまる。初日の土曜日は何と無料とのこと。毎年楽しみに通っているけど過去のエントリーで言及した記事は意外に一つも無かった。今年は好きな写真家である石内都さんの展示もあるので尚更楽しみだ。

最近気になっているのが門倉太久斗さん。市販の色んな素材を使ったプリキュアのネックレスがめちゃくちゃにかわいいので是非見てほしい。個人的には、マンションの掲示板に一晩だけ掲示されるドローイングのシリーズが一番好き。

先日の京都旅行のついで、というかこっちが本来の目的だったのだけれど、民博のアルテ・ポプラル展を見てきた。アルテ・ポプラル Arte Popular というのは、その名の通り民衆の芸術のことで、芸術理論や技法などの教育を受けていない市民の土着の芸術作品のことを指している。この言葉と展示自体はメキシコのものだが、同じような概念は日本にもあるし、世界各地にも存在するだろう。何故だか自分はこういう作品に強く惹かれるものがある。


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浅煎り

東京の夜景は好きだ。思い出すたび、何度でも見に行きたくなる。地元で育った年数と、東京に来てからの年数が段々と近くなっていくけれど、それでも田舎者の感覚は抜けないのか、夜景を見るたびに新鮮な気持ちになる。とはいえ、最初に見た頃のような感動をうけることはもうないのだろう。それは夜景だけでなく、風景一般に受ける印象として言えることだし、小説や映画に対してもそうだ。

心に届くまでの距離が遠くなっている。あるいは、心に届くまでの分厚いフィルターに、刺激的な情動のほとんどを濾しとられてしまっている。

それは多かれ少なかれ、自分に限ったことではないだろうと思う。ある程度加齢に伴って情動の幅は狭くなってゆくものだ。だからそういった「良い」感情だけではなくて、不安や恐れなどのストレスも受けにくくなっていくのだと思う。涙を流せなくなってきていることを寂しく思うことはあるけれど、昔よりは肯定的に受け止めることができている。

 

夜景の話に戻ろう。

個人的には、東京の夜景に東京タワーは欠かせない。何となく冬は特に。東京タワーを間近で眺めるのも大好きだけど、東京タワー展望台に上ると東京タワーそのものを見ることができないジレンマがある。以前も東京タワーに触れたエントリーを書いたけれど、いつの間にか季節が変わり照明も冬色に衣替えした。

東京タワーを中心に据えるならば、最もタワーの間近で夜景を楽しむことができるのは東京プリンスホテルだと思う。上層階にバーがあるので宿泊客でなくとも気軽に夜景を見に行くことができる(少し交通の便が悪いというか、周りに何もないのが難点)。行きやすいところでは、その次に六本木ヒルズが近い。展望台からバッチリ見えるし、けやき坂のペデストリアンデッキから眺めるのも良いだろう。スカイツリーからももちろん見えるが大分サイズは小さくなる。他にも虎ノ門ヒルズやマンダリンオリエンタルなど沢山のビューポイントがあり、それぞれがそれぞれの東京タワーの表情を見せてくれる。ここ数年でますます高層ビルが乱立しているが、東京タワーは相変わらず個人的な東京のランドマークだ。


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猫の夢

あくまで個人的な事情だが、負の感情は文章に起こしやすい。負というと少し語弊があるかもしれない。例えば満たされない感情、鬱屈した感情、ものごとに対する批判や非難の精神など。文章にしやすいからこそ、意識してそのような話題はなるべく避けようとする。逆に、ポジティブな感情、好きなもの愛おしいもの、賞賛すべきものに対してはそもそも文章にしないか、文章にしても極論「良い」の一言で終わってしまう。負の側面は構造化しやすいが、良さの感情は言語化できない複層的な要素があり、それをうまく表現することができない。筆舌に尽くしがたいことは良いものにほどよくあること。経験的に、文章にせよと言われたらそれなりの文章にはなるだろう。けれどもそれは冗長で面白みのないものになりがちで、筆を尽くすほど現前する良さから遠く離れていってしまうような気さえする。あの日見た夕景の美しさ、金井美恵子の小説、金木犀の香り、シャンパーニュの味、それら全てが「良い」の一言で並列に語られるとしたらそれはどう考えてもおかしい。語り得ないことではないはずなのに、語ればそのものの持つ「良さ」がぽろぽろと風化していってしまうような、そんな恐ろしさを覚える。言葉は美しく脆い蝶の標本のように、引き出しの奥にしまわれたまま二度と顧みられることがない。


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思い草

理由もなくせつない、言葉にならない不定形の感情が、胸に押し寄せては優しく波風を立ててゆく。夜になると半袖では少し肌寒くなってきて、東京でも少しずつ秋の気配を感じるようになった。

先日、はじめて向島百花園を訪れた。夏の間は花を愛でるということをしばらく忘れかけていたが、9月の中頃、夏前からカレンダーに仕掛けておいたリマインダーのポップアップが紫苑の見頃を伝えてくれた。この頃の向島百花園は、どちらかと言えば萩の花で有名なのだが、それ以外にも紫苑をはじめとした秋の草花にあふれていて趣がある。

紫苑の花には個人的な思い入れがあり、いつかこの目で見てみたいと思っていた。(多分これまでにも見たことはあるのかもしれないが、それと認識して愛でるということをしてこなかったと思う)

紫苑は石川淳の『紫苑物語』に出てくる花だ。石川淳は個人的に大好きな作家の一人であり、紫苑物語はその代表作でもある。弓の道を極めんとする守は、狩りでは満足できず次第に家人でさえも弓の的にしてしまう。紫苑はその射られた血を吸った土に植えられる象徴的な花だ。

 

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大学の教養でとっていた仏語の教官のことばで、今でも印象に残っていることがある。マルグリット・デュラスの『夏の夜、十時半』という作品がある。フランスにおける夏の夜の十時半は、まだ陽の明かりが残っていて、日本の夏の夜とは全然違うものだ。フランスの夏の夜を経験しているのといないのとでは、同作の感触は全く異なるものになるだろう――というもの。仏語もろくに身につかなかった自分だが、このことばだけは妙に印象に残っていて、それからの読書体験に終始影響を与えることになった。大学最後の春休みで一人米子に行ったのも、暗夜行路に描かれる大山をこの目で見たかったからだった。(本当なら、謙作の体験に従って山の中腹から明け方の景色を眺めるべきだったかもしれないが)

 

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紫苑は人の背ほどに徒長する。

紫苑物語の中で、歌人の血を吸って咲きほこる薄紫の花はこんな感じであったのだろうかと想像すると、数年前に読んだこの作品の読後感が生き返り、また違った命を吹き込まれたように思える。

 

小説にはかくのごとき良さがある。小説の中身は同時代同地点のものということもあるし、遠い昔のできごとであったり、空想上の世界のエピソードであったりすることもあるのだが、そこで見ている光景や抱いた感情、苦しみ悲しみ喜びが、われわれの何かしらの実体験と交錯して、まるで目の前で生きているように胸の鼓動と共振をはじめる。そして、いつしかふとした瞬間のどうということのない体験によって、その小説に新しい命が吹き込まれることがある。そんな時ほど読書のありがたみが感じられる。自らの血肉となり、心の奥底で共存するようなかけがえのない読書体験は、そうそうあるものではないと思うが、そういうことがあるから今日もまた新たな本を手にとるのだろうと思う。

 


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