アニマ

その話題には、触れてはいけない。触れて良いことは何もない。そのことについて自分は部外者で、無関係で、なんの力になることもできない。失った時間を取り戻すこともできない。語り得ぬものを目の前にして、ただただ祈ることしかできない。建前としてはこんな気持ちだ。だけど本音としては、自分だけの思いが溢れてくるのを止めることができない。そしてその思いはきっと今以外に吐き出すことはできないだろう。だから、祈りに代えて、そろそろと書き残す。

 

「それ」は、手書きの一枚一枚が積み重なって一つのいのちを与えられる。まさしく、animaというべきものだ。

 

蓮沼昌宏さんというアーティストは、キノーラという装置を使った作品をいくつも生み出している。キノーラは、円形に束になった紙の一枚一枚に絵柄が描かれており、ハンドルを回してゆくと留め具からはじかれた一枚ずつがパラパラ漫画のように巡る装置で、19世紀に考案されたものだ。キノーラを自分の手で回していくと、一つの静止した装置が草原を駆け抜ける馬のように活き活きと躍動しはじめる。留め具が紙をはじく振動が心地よく伝わってくる。それは、いのちを吹きこまれた装置の心の鼓動のように。

 

「それ」は時には、目に見える情景を、目に見える以上にリアルに伝えることができる。そして、時には存在しない世界を描き、見るものをその世界に引き込む魔力を持つ。小説や物語からわたしたちが想像したシーンを、良い意味で期待を裏切るように具現化してくれる。無数のセルはやがて永遠のいのちとなり、何千何万回とその生をくりかえす。そんないのちの魔法をもたらすのは、魔法使いでも何でもない、ただの人である。一枚一枚の積み重なり、そしてその一枚一枚を描く人、キノーラのようにハンドルを回す人、音のない世界に声と音楽を吹き込む人、たくさんのひとの積み重なりでひとつのいのちが生み出される。そのいのちは、これまで無数の命を救ってきただろう。夢を与えてきただろうし、きっとこれからもそうだろう。

あまりに急に訪れたことで、やるせない気持ちを隠すことができないし、正直名前も知らない人たちのことを思うこともおこがましさを感じることもあるが、自分はただただその人たちに敬意を表したいと思う。ものを生み出せるということは、途方もない努力の積み重なりの結末にある。エンドロールに流れる文字の積み重なりを見ていると、なぜだかふと涙が流れることがある。それは憧れからくるものなのかもしれない。ひとに生きる夢を与えてくれることほど尊いことはないと思う。自分自身も、たくさんの作品に勇気づけられ、心を動かされ、人生を変えられた。本当にありがとうございます。

亡くなられた京都アニメーションの皆さんのご冥福をお祈りします。

 


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